ルート 眼鏡克哉×御堂 時期 本編 空白の一年〜再会時 警告 性描写あり、暴力描写あり |
佐伯はもうそこにはいない。 けれど彼の目は、まだ私を見ている。 私には彼は見えない。だって彼はそこになどいないのだから。けれど間違いない。 (あの目だけが、) 私が作り上げた、幻影の毒の視線だけが、 (まだ私を見ている。) ファントムペイン 上 不自由な体勢を長時間にわたって強いられていたせいで、身体のあちこちが痺れや鈍痛を通り越して鋭い痛みを訴える。 長時間、といってしまえば一言だが、何時間という単位ではなく何日間ということだ。正確に何日間、というようなことは覚えていない。彼が私の身体をもてあそぶときはきつい拘束を外されていたような気もするが、それももうはっきりとは覚えていない。 覚えているのは、時間の経過がたったそれだけで責め道具になる、そんな惨い苦しさだけだ。 実際、拘束が24時間を越えたころから肩口のだるさが首を痺らせた。肩凝りという言葉で済ませるにはあまりにひどい状態に頭部の血管が悲鳴を上げたのだろう、頭全体を締め付けるような鋭い痛みが吐き気を呼んで、私は誰もいない部屋で一人でえずいては喉元にこみ上げるものをなんとか飲み込むことを繰り返していた。渇いた喉に粘った唾液が絡んで、ひりひりと痛む。その焼けるような痛みに、頭痛のリズムが乱反射してさらに吐き気を呼ぶ。 長時間の拘束の危険など全く気にもかけない男が適当に縛り上げてそのまま放置していたのだから、そんな状態も当然といえば当然のことだ。 いまだって、全く身体に力が入らない。 まるで無造作に、床に投げ出された腕をぼんやりと見つめながら自覚する。 否、無理に動かそうとすれば動かせるのかもしれないが、今の私にそんな気は、もうない。 以前、彼に戯れに鎖を外された直後、今と似たような痺れとも痛みともつかない不具合を訴える肢体を無理に動かそうとして、筋を違えたことがあった。黙って冷たい汗を流しながらその痛みに耐えていたのに、あの男は私が上の空でいるのが気に食わないといって散々に私をいたぶった。 今、こんな冷えた暗い部屋でこんな軋んだ骨を動かしたら、今度は私の腕は肩ごと折れて身体からもげてしまうかもしれない。そしてこのあいだよりももっと酷い目に合わされるのかもしれない。ひとしきりそんな怯懼に私は震える。 鼻先の床のこまかな埃が、震える吐息に呼応するかのように震える。 ふと、窓の外で風が啼く音が聞こえたような気がした。何かが私の意識のほんとうに端、あとほんのすこし向こう側だったら絶対に見えなかった、わからなかったはずの場所でひっかかっている。 何かが。 ぴくりと、凍えた指先が床を掻いた。 ―――冷えた、暗い部屋。 (なぜ、今日はこんなにも冷えているんだろう。) 名前も知らないその引っかかった何かの、頼りない糸口を乖離しきった頭でふわふわと弄ぶ。 冷え切った、真っ暗な私の部屋。 なぜ今日は、この時間になってもあの男がやってくることもなく、ここはこんなにも静かで寒いのだろう。 否。それよりも。 どうして私には今、身体を動かすという選択肢があるのか。 あの男に陵辱されるためではなく、ぎこちない動きを嗤われるためでなく。なんのためにでもなく、ただ私は自由なのか。なぜ、こんなに真っ暗な私だけの部屋に、鎖から解放され―――私の自由に投げ出された私自身の腕があるのだろう。 ずっとそこにあったはずの戒めの鎖を解かれた自分が、まるで捨てられた玩具のひとつのように床に転がっているのだと理解したのは、それからたっぷり時間がたってからのことだった。 「……う、」 喉の奥を通る風が、勝手に私の声を浚って外へと吐き出される。 重力がここだけおかしくなった気さえするだるい身体を引きずって起こし、あたりを見回してもう一度自分の状態を確認する。そんなことにも冗談のように時間がかかった。不安定に持ち上がった上体のせいでぐらりと回った首が、私の視点をめちゃくちゃにかき回す。 冷えた空気、あちこちに乱雑に散らばった汚らわしいもの、何とも知れないもので濡れた床。 つんと饐えたような臭いは床から立ち上ってくるが、それがひっくり返った皿につぶされている傷んだ食材の臭いなのか、私自身の唇からだらだらと流れてとまらない涎の臭いなのか、あるいはそこだけは疼いてたまらない獣じみた場所から流れ落ちた忌まわしいものの臭いなのかは、もうよくわからない。 よどんだ空気のなかで浅く何度も呼吸をして、こみ上げてくるものにきつく目を閉じる。ずるりと後孔から粘ついたものが流れ出てきて肌を粟立たせる。気持ちが悪い。 「…ああ…、……。」 気が遠くなるほどの時間をかけてわずかに身体をひねると、皮膚が染み入るように痛んだ。 ゆっくりと下を向くと、膨れ上がった胸の蚯蚓腫れの裂け目から、膿が盛り上がり流れ落ちるところだった。粘液が少しずつ肌を滑っていくのが気持ち悪くて、自由になった腕をなんとか持ち上げ、指を伸ばしてその膿に触れ、けれどどうやってそれをとめていいものかもわからずにただ指先で冷たく粘ついた感触を弄り回す。結果、浅くわずかに傷口をえぐった指がさらに新たな膿を呼び、弄り回されて胸板に薄く広がった薄黄色いものがすうすうと風を弾く。 「ひ……、」 呆けるようにしながらも、その感触に、私の身体はまざまざと恐怖を思い出していた。 ―――『あんたは全く、強情だな。』 耳朶にしみ込んだ酷薄な声が、苛立ちも露に私に詰め寄る。その声は今になってもまだ鮮烈だ。 ―――『わからないなら、わかるようにしてやろうか。』 もう何日前かは覚えていない。その声を聞いた後に、何度も執拗な苦痛を受けて、自分がまるで呆けたように彼に跪いたことは覚えている。与えられる衝撃と罵声に、恐怖で頭がいっぱいになって、彼の言うがままに。 また今日も、私はあれをしないといけないんだろうか。 勝手に達しただとか、あるいは強情にそれを拒んだだとか、罰の理由は佐伯にとっては何だって良かったらしい。彼の気分のままに打ち据えられて傷つき、裂けた場所はこの胸だけではなく、体中を見回せば数を数える気さえもが失せる。 (また今日も、だろうか。) いまは何かの気まぐれで私の身体は自由になってはいるが、今日もまた、あるいはこの瞬間にも彼はあの扉を開けるのではないか。そうしてまた私を繋ぎ、責めたてるのではないか。もしかしたら、彼の気まぐれで私の身体は自由になっているのではなく、私がどうにかして戒めを解いたのかもしれない。何をどうやったかは覚えていないし実際できるとも思えないのだが、もしかしたら、何かの弾みで幸運にも。だとしたら恐ろしい。きっと私は、勝手なことをしたと罵られて戻ってきた男にひどく折檻される。 思い至った瞬間にがたがたと身体が震えだした。そんなことをしては傷口が開くのはわかるが、止めようがない。見る間に大きくなっていく震えが、歯を勝手にかちかちと鳴らし、喉の奥で哀願めいた泣き声をもれさせた。 錠が外れて床に投げ出された首輪を、手錠を、その他の拘束具をかき集めて、ごまかすようにその鎖の端を手のひらに握りこむ。責められるのは怖い。痛みや性感も、彼の囁き声も怒鳴り声も、さらには私自身のうめき声にさえも、もうひとつとして私自身は耐え切れるとは思えなかった。冷たい鎖を握りこんで、それでももう一度自分でもとのとおりに締め上げるのもやはり怖くて、なんども手を握ったり開いたりしているうちに、鎖はさっき弄り回した膿で滑って、震える手のひらから零れ落ちた。 ―――『あんたをかいほうするよもうおれはなにもしない。』 耳の奥でそんな音がこだましたけれど、その意味は今の私にはよくわからない。また拘束具をかき集めて、再び取り落とす。何度も落としてはあわてて拾い上げ、拾い上げてはまたすべり落とす。 「ひ……っ、」 追いかけてくる形もわからない恐怖にせかされて、どのくらい経ったのか。 半泣きになりながらやっと私は、彼の暴力から逃げる決意を固めた。 「来る、な…。」 うわごとめいた呟きをもらして、けれど立ち上がることなどできそうにないからドアまで必死に這い寄る。 何度も視界は揺れて大きくぶれる。何回か繰り返してから、自分が痺れた脚をもつれさせて何度も転んで倒れては床に身体を打ち付けているのだと解ったが、そんなことはもうどうでもよかった。どうして私の戒めが外れているのかもいまだに解らなかったが、そんなこともどうでも。なによりもとにかく、あの扉が陵辱者の手によって開かれる前に、なんとしても鍵を閉めて閉じこもりたかった。あれから逃げ出したかった。 彼が合鍵を持っているはずだとか、その手にそもそも最初の戒めとなった私の痴態の証拠があることなど頭には浮かばなかった。今はもう、否応なく彼から与えられるものすべてが怖い。これ以上何かされたら私は私でなくなってしまう。ただそんな、理屈も無視した根源的な恐怖が身体の芯を焼いて、喉を凍らせる。 もしも私があのドアにたどり着くより前に、あのドアが外からあいてしまったら?あの獣を呼び込んでしまったら?そうしたらもう私はおしまいだ。 (きっと、そんなことになったら。) 何が起こるかは容易く想像ができる。そしてそのさらにほんの少し先には。―――きっともう想像すらできない、まっくらな闇がひろがっている。 焦燥に焦がされながらドアのすぐ手前まで這いずったときにはもう、床に身体を大きく打ちつけたせいであちこちに鈍い痛みは増えていたし、ぜいぜいと喘ぐ音がドアのすぐ外まできこえるほど大きくなっていた。冷えた空気と一緒に吸い込んだ、床に舞う埃の塊が喉の奥に張り付いて、ひとしきり激しくむせこむ。 「いや、だ、あ……。」 必死の思いでたどり着いた目の前のドアに全体重を預ける様にして這い上がる。開いたままの鍵に手が届く。開いたままの?と誰かが頭の中で訝しがるが、そんなことさえも今の私にはどうでもよかった。 「さえき、」 震える指でゆっくりと二つの鍵を回して、重いチェーンを持ち上げて落とし込む。 施錠の重い金属音を確かめてから、ずるずるとしりもちをつく。それでも得体の知れない恐怖は絶えず胸の奥底を灼き、私の恐れを爪先で掻きたてる。しかたがないから私は、何度も扉に力いっぱい体当たりをしてそれが開かないことを確かめた。冷たい扉にぶつけ続けた肩がじんわりと痛む。ひやりと触れるドアの冷たさに、自分以外の誰かの体温がないことを確認して力が抜ける。 そんなことをしているうちにすぐに体力の限界が来た。 ドアに縋り付くようにしていた両手が垂直にずり落ちる。 ―――あんたを、かいほうするよ。もうおれは、なにもしない。 耳の奥でくりかえされる寂しげな声などかまわずに、私はしりもちをついた姿勢からゆっくりと横に崩れ落ち、玄関の三和土で横たわって丸まる。視界に佐伯の靴がないことに心底安堵して、フローリングの床よりもひんやりと冷たいタイルに頭をおとした。じゃり、とほんのわずかな砂が髪に絡む感触が頬にも伝わる。雨とコンクリートと、かすかな土の匂いが鼻腔をくすぐる。 ―――あんたを、解放するよ。もう俺は、なにもしない。 (だからあんたはもう、俺に怯えて暮らす必要はない。) 耳の奥に残った言葉を、意味もわからずに何度も何度も繰り返しながら目を閉じて、そのまま。 ずいぶんと久しぶりに、私は長く眠った。 真夜中になって、身体が冷えて軋んで目が覚める。震えながら私は汚れた身体のまま、ベッドまでもう一度這いずってシーツの中に潜り込んだ。シーツの中で彼の気配がないことを何度も何度も確認する。視界の端っこで、ドアまで這いずっていく途中で掌から滑り落ちてそのままになっていた戒めの鎖が鈍く光っていた。 次の日の昼ごろに目覚めたものの、荒れた部屋を気にする余裕も、ましてや男に対する嫌悪感や復讐心も沸いてこない。ただ、今までぎっしりと胸のうちを占めていた、彼に対する恐怖心だけがぽっかりとなくなっていて、そのどうしようもない空白を私はただぼんやりともてあました。 眠くもないのに気づけば時間が過ぎている。重くなった瞼と頭に、あまり質のよくない睡眠に落ち込んでいたのだと気づいて、しばらくまたぼんやりと私のなかの空白をもてあまし、そうしてまた汚泥に落ち込むような眠りに捕まる。 その日から始まった悪夢は、ひどく抽象的なものだった。 ◆◆◆ ぎらりと光るものがそこにある。もしかしたら、そこらじゅうにあるのかもしれない。 悪夢を見始めた最初は、それが何であるかわからなかった。直視もできないままに、なぜだかそれがひどく不吉なものだということだけが本能的に知れて、私はそれの存在にひどく怯えた。 なんどか見て、ようやくその正体が知れる。 それは、彼の目だった。 私が必死に睨み付け、そうして目をそらした、彼の視線だった。 その目は私を常に見ている。その視線が、肌の上を這う感触がする。 その視線のなかで、嬲られていた私の姿を、私は遠くからぼんやりと見おろしている。その淫靡な映像の中で、私の身体は彼の熱塊と合わさっては粘着質な音を立て、まるでひとつの原始の生き物のように呼吸し、蠢いていた。 『はあっ、う、あぁ……。』 そう、本当は彼に詰られるよりも早く、私自身が知っていた。私の肌はとうに陥落し彼の与える暴力的な快楽にしたたかに酔っていたのだと。嫌悪も、羞恥も、否定も、なにもかもをやすやすと超えて、私の肉体だけは彼に懐いてその熱を乞うていたのだと。 酷薄に彼の薄い唇が嗤う。背中を抱え込まれ、首筋から背中を舐め下ろされて、震える身体だけにわかる言葉で文字通りに組み敷かれる。 その瞬間、彼は、私がいままで熱を分け合っただれよりも、私の核の近くにいた。あとほんの少し踏み込めば、私自身が必死に押し込めてなかったことにしている柔らかな場所に爪先が入る。無理矢理に身体ごと私のその弱みに押し入るような、それでいて私自身が内側から毀ち崩れ落ちるのを待ちわびるような顔で舌なめずりをして、私の自尊心ごと私を揺さぶっては反応を返す身体をもてあそんで。あのとき彼は、たぶん今まで知り合った誰よりも、私の―――彼の言うところの、塔の内部に踏み込んでいた。 『わからないなら、わかるようにしてやろうか。あんたの身体は、素直だからな。』 そういわれて滅茶苦茶に叩きのめされて、そして尊厳も慈愛もなにもない獣じみた行為を強要されたとき、嫌だと思いながら与えられる恐怖と惑乱に私は跪いていた。あのときの自分がどれだけ惨めで無様だったのかを想像する。―――ぼろぼろと感情も追いつかない惰性のような涙を流しながら、傷口をかばうこともできずに痛めつけられて、唯一自由な口からは制止の媚びた色合いを帯びる悲鳴が漏れた。 あのときも、私は自分の置かれている状況をもう見てはいられなかった。 何も感じないように意識を目の前の現実からわずか数センチそらしながら、口を開いて彼のものを受け入れた。彼が怒鳴りつけないことだけを、後頭部に添えられる掌が乱暴にならないことだけをぼんやりと願って、時間が過ぎるのをただ待っていた。喉の奥を突かれても、不思議と息苦しさは感じない。嘲る声はどこまでも遠く、目を伏せれば彼の暴発という目の前の痛苦からは逃げられることを学んでからは、進んでそうして時間が過ぎるのを待った。 私はあのとき、たしかに精神ごと彼に組み敷かれていた。 たしかに、彼のもたらすものの前に、私は。 「よ…せ、」 (離せ、やめろ、触るな、) 「……ッ!!」 胸のうちを食むようにして一気に襲ってくるのは嫌悪感だ。 彼へのではなく、自分への。救いようのない嫌悪感だ。 堕ちて来いという彼の言葉に、私は従わなかったのだろう。それは解る。けれど、なにか、私の中のごく柔らかな部分は、嬲られ続けてとっくに溶けて崩れていた。あのとき、私の悲鳴には、さっき感じ取った媚びた色など混じっていなかったと言えたら、せめて偽りでもそう思えさえしたらどんなによかっただろう。 強いつもりでいた。 (私はほかの人間とは違うのだと。) けれどあの、逃げようもない暴力の前で跪いていた私は、どうしようもなく。 (私自身が軽蔑し、自分には決して許さなかった、ごく普通の醜い無力な。) 否、ごく普通どころではなかった。私はやりきれないほど惨めだった。打擲の恐怖といたたまれない性感に首をすくめ弱々しい声で許しを乞うていた自分は、今思い出せばどうしようもなく。 思い出した光景の情けなさに、胃の中がぐるぐると嫌な音を立てて蠕動する。 どうしてあのときに私は彼に屈したのだろう。そうも思うのに、きっとまたあの恐怖にさらされたら私はあのみずぼらしい醜態をみせるのだろう。 「……く、そ……!」 想像の中でうつむく私が痛ましくて、そして同時に絞め殺してやりたいほどに憎らしい。涙が出るほど痛々しくて、けれどあんな惨めなものが自分であること自体が汚らわしくて体中に嫌な汗がじっとりと浮かぶ。私は想像や回顧のなかですらその、彼に屈従した哀れな私自身の姿を正視できない。 『……こんな…のは、私じゃ、ない……。』 ああ、本当に。 そうだったなら、どんなによかっただろう。 こんなのは私じゃない。本当の私じゃない。 繰り返すまじないじみたその言葉がどうしようもなく偽りであることなど、私自身が誰よりもよく認めていた。即座に彼から迷いのない否定と揶揄が返り、彼もまた私の言葉の偽りを、虚勢を知っているのだと思い知らされる。 佐伯は知っている。 私が自分のうちに押し込めて隠していた浅ましいものを、卑しいものを知っている。もう少しで爪先が届く、堅い塔のなかの柔らかな土を知っている。知っていて続けられる揶揄に、私は黙ってきつく目を閉じていた。それでも逃がさないと、ごまかすことなど許さないと、あの傲慢な視線は縮こまった私の身体を嘗め回す。 私はあのとき、どうしようもなく無力だった。 そして佐伯はあのとき、だれよりもきっと私の奥深くに踏み込んでいた。私の核のひどくやわらかい部分はそれを感知して―――そうして、とうに降伏していた。殻を脱いでしまえば、私はひどく脆い、弱く狡く浅ましくたよりないものに成り果てていた。 (貴様、) じわりと目の前の風景が歪む。誰に対しての怒りかはわからない、震える焔が胸の底を焦がして、それでも燃え広がることもできずにじわじわとくすぶる。その湿った熱度に呼応するように、眦が熱くなる。小さく手が震えていることに気づいたら、乾いた笑いさえもが漏れた。 他人を越えて凛としてあることなど。常に勝ち続けて、そうして上を目指して伸びていくことなど。 (私には、最初から無理だったのかもしれない。) 自暴自棄な安堵がゆっくりと胸のうちを占める。無様な自分を見るのがもう嫌なら、目を閉じてしまえば楽になる。正気では自分への嫌悪から逃げられないのなら、いっそのこと。 それなのに。 『あんたを、解放するよ。』 ―――繰り返す悪夢の終焉は、きまって彼のその言葉だ。 あの日の、ひどく甘やかな、優しげな、冷たい―――そんな毒に、ぴったりと合わさっていた肌が、彼の澱が引き剥がされる。ゆっくりと狂気の王国が離れていき、私は取り戻した見たくもない自分自身をまた突きつけられる。そうして私は、じっとりと汗をかいてたったひとりで飛び起きる。 吐息を弾ませて、ぬかるんだ瞳でじっと持ち上げた手を見つめる。拘束の痕は薄れ、痣も少しずつ目立たなくなっていく。それなのに、私の中にはまだ。私は、まだ。 (私だ。) あれが私だ。あの卑しいものが。彼に服従し、そして放り出された、この惨めなものが。 塔のなかのやわらかい土はひどく残酷に掘り返されて踏みにじられて、そのまま放っておかれて、きりきりと寒さに痛んでいる。 『もう俺は、なにもしない。』 私の卑しさをその瞳に移しきってそれを散々私に見せ付けて痛めつけて叩きのめして、挙句に君はそんなことをいって私を放り投げた。そうして私はあの日の床に、傷だらけのまま、あちこちを汚した姿のままうずくまる。 『堕ちて来い。』 (君は嘘吐きだ。) もとより、私を受け入れる気も飼いならす気もない。君はただ私を引きずり回すだけ引きずりまわして叩き落して、中途半端な状態に放り投げたまま―――もう、ここにいない。 朦朧とした私が君の目の前に捧げたものを、君はただ悲しい目で見やって、優しく包み込んで私の中に戻した。 (君は、私から逃げてしまった。) 君に押し戻されたそれは、もう私のどこにおさまっていたのかも私にはわからない。私の身体から引き剥がされて、目の前でどんどん冷えていくそれに私は泣き喚いて、けれどなにをどうすればいいのか、私にはもうよくわからなかった。 私は惨めだった。君に屈した私も、君に拒絶された私も、ひどく惨めだった。自分がいなくなってしまえばいい、そう思っても、実際にいなくなるための方法すら考え付かない空っぽの頭を抱えて、私はかつて、自分よりも下だと確信した名前も覚えていない誰かにしたように私を嗤った。 「……………!!」 幻影の私が情けない声をあげている。 (ああ、そうだったな、) 私がいままで嗤ってきたのは、ちょうどあそこで無様な醜態をさらしている者によく似ている。 逃げたのは、私ではなく、君だ。私には逃げてまで守るべきものなどなにもなかった。 取り残されているのは私で、君ではなかった。君は強いから、あっさりとその身を翻して駆けていってしまう。私自身はといえば、立ち上がれもしないまま、自分以外のなにかを憎むことも求めることもできずここで震えているだけだ。 これが、この状態のすべてがただの君の計算だったらどんなにいいだろう。 君が笑っているだけだったらどんなにいいだろう。 そうしたら私は自分を慰撫することも、君を軽蔑することもできた。君に堕ちることも、絶望することさえ、きっとできた。 (それなのに、) それなのに、最後の君の声が私の逃避の道をも塞ぐ。 『もっと早く、』 (あんたがすきだってきづけばよかった。) もっとはやく、気づけばよかった。 何度も夢の中でつぶやき続けたせいか、それが彼の声か自分の声かもわからない。 「さえき、」 その夢の中ですら吐き出す呼び声は地を這うような声音で、そうしてひどく震えていた。 ◆◆◆ 夜毎に見る夢の中で私は彼を刺した。別の夢の中では跪く彼を犯し、また別の夢では彼に絞め殺され、さらに別の夢の中ではあの肌に抱かれてうなされるように熱を分け合っていた。 一週間とつづいて解放されたことがない。彼の幻影は私をその目に写しこんでは、最後に見捨てる。その目を独占していたはずの私の影が色をなくす。私は何の意味もなく、ただ放りだされる。 「なんで、消えない……ッ、」 つぶやいたつもりの声はひび割れ、ゆがみ、泣き声に近かった。 びくびくと身体の内側が不自然に震えた。腹の底が一緒に震えて、ひどく卑しく浅ましい熾灯が喉を駆け上がる。所有者であるはずの私の意志さえも易々と裏切る空っぽの肉が、不気味に、その反応だけで彼の面影を追う。 求めてなどいない。 ましてや欲してなどいない。 それでも薄暗い情念の焔が、意味もなく揺らめいては私の精神だけを嬲る。 (佐伯はもうここには来ない。) けれど彼の目はまだ私を見ている。 (ただ彼の目だけが、まだ私を逃さない。) (ああ、) あれが本当に私でなければ、どんなによかっただろう。 こんなのはわたしじゃない。 それが、真実だったら、どんなに。 to be continued |
2010.2 written |
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