久々に扉を開け放つ。 ひゅう、と音を立てて吹き抜ける風に、湿った独特の気配を感じて、ああ雨が降ったのかと頭の片隅で考える。 冬から春に向かって駆け出す季節は、雨が多い。張り詰めた真冬の空気をまとったつめたい雨ではなく、ぬかるんだ甘い暖かな雨が。濡れてしまえば寒いのは同じことだけれど、私はこの季節の雨の匂いと感触があまり好きではない。 そんな思考が、どこか他人事のように私の頭の中を滑って空回った。 一歩玄関から外に踏み出して、次の一歩を踏み出す足はわずかに震えていた。なんとか踏み込んだ二歩目の歩幅はいっそ哀れなほど小さく、三歩目まではそれでも歩けていたが、もう一方の足を地に着けたところが限界だった。 私はよろめくように、玄関の扉の向かい、胸の高さまでしかないマンションの壁に手をついてそのまま廊下でうずくまる。 階下、ちょうど買い物でも済ませてきたのだろう住人の、こつこつというヒールの足音とビニール袋が摺れる音、カードキーを差し込むごくわずかな硬い音が私の耳まで這い登る。自分以外の人間が至極そばにいること、そうしてその人間が私を見ていないことに、理由もわからず酷く安堵して私は深い息をつく。見るとはなしに眺めていた目の前のマンションの壁と、そこに映りこんだ自分の影が、みるみるうちに歪んでぼやけた。 いま、自分は震えているのだ。 そう気づいたのは、そのまま座り込んで、どれくらい経ってからだったか。 ひゅう、ともう一度、さっきよりもきつい音をたてて風が啼いた。 体が冷え切っているのに気づいて、もつれる足で自分の部屋に逃げ込む。私がたった四歩しか歩けなかった外界は、それでも惨めな私の感傷などには無関心だ。全く無関心に、身を切るほどに鋭い風の向こうに、どこか懐かしく暖かい、春告げの柔らかな空気を満たしていた。 季節は移る。私が動かなくても、知らなくても、触れなくても―――私がどれほど苦しんでいようと、そうでなかろうと。世界はきっと、私だけを一人置き去りにしていても、どこまでも問題なく回り続ける。たったそれだけのことが今の私にはこんなにも重大だ。自分がこれほどまでに小さなただの一人の人間だと、ただそれだけのものでしかないのだと、百の言葉よりはるかに饒舌な沈黙が語る。 ほとんど四つんばいになりながら駆け込んだ玄関の内側。重い音をたてて閉まった扉に背中を預けて、瞳に溜まっていた雫が堰をきったように流れ落ちるのを、耳の奥で冷静なもう一人の私が嘲笑していた。 床に落ちたままにしていた銀色の光が目に入る。それは、彼が置いていったスペアキーだ。何度か拾い上げては床に叩きつけて踏みにじったそれを、私はもう一度ひったくるようにして拾い上げる。いつだったか、一度力任せに捻じ曲げようとして、それでもこれは捻じ曲がらなかった。―――ああ、ここにも私に無関心な無機物がある。おかしな方向にどんどんと八つ当たりの対象を増やしていく自分の頭の片隅で、途方に暮れたため息が漏れた気配がした。これでは社会復帰するのに、どれほどの時間がかかるのかわからない。 (社会復帰、か。) それでも、自分が当たり前のように社会復帰を考えていることに、私は救われる。 たとえそれが、再生への芽吹きなどという全うな、健全なものではなく、三十年近くかけて培った、いうなればただの脊椎反射に近い乾ききった感覚だったとはいえ。 私はカードキーを握りこみ、自分で自分の肩を抱きかかえてしゃがみこんだ。 そうして私は、瞼の裏に浮かぶ幻影に向けて苦く嗤う。 その幻影はこの、なにもかもがばかばかしいほど猥雑な色にくすんでしまった部屋のなかで異質なほどに鮮烈だ。 幻影は、私自身のかたちをしていた。 無様にうずくまった今の私を、そして箍が外れたように暴れ狂い、やがては打ち棄てられた玩具のように横たわるいつかの私自身の影を見下して、口元をゆがめたその姿。色合いは鮮烈なくせに、常に私自身の視界の端に位置するせいで、ぼんやりと霞んでは揺れるそれに向けて、意識してそれと同じような笑みを返す。 (残念だったな、おまえは幻影だ。) おまえ、この鏡像。 おまえはすでに撓んで砕けた。 粉々に飛び散ってしまった。 もう元のその姿すらもが曖昧なほどに、正視がかなわぬほどに、 (瞼の裏に浮かべてなお、こんなにも霞むほどに。) ああ、それにひきかえ。 否、それにもかかわらず。 ここに残された私自身の、はっとするほどに生生しい身体は。感覚は。混乱しきった感情は。その行き着く先も知らず、ただぐるぐると回ってはあちこちに飛び回る、私の苛立ちは。熱源は。酷く淀んだ煙をたててくすぶる、この真冥い情動は。卑しく浅ましい、私の中の獣を抱えてのた打ち回る私の、ひずんで捩れてしまった理性は。 ―――わたしは、 (まだ、生きている。) ファントムペイン 下 (私は、まだ生きている。) 震えながら、自分でもいやになるほど震えながら唯一つかんだ現実への手がかりは、そんなにもちっぽけなものだった。それにしがみついた自分を、かつての日の孤高の自分の幻影が不思議な目で見ている。理想だったはずの高みから、こちらを見下ろして―――否、こちらを食い入るようにして見入っている。 わたしは、いままで。 (こんなものとは無縁だった。) こんな情動とは、獣性とは、割り切れぬ思いを檻に納めても置けないほどの狭量さとは。そんな言葉の一切を超えてひどく生々しく私の胸に迫る、居心地悪さには。なぜだろう、そのことに対して、私の胸には今は後悔も軽蔑も―――ありすぎるほどあるような気はしていたが、何もかもが飲み込み損ねた強い酒精のように雑然としている。ただただ整理がつかない。ひっくりかえされたおもちゃ箱のがらくたの中から不意に顔を出しては私をかき乱すのは、強烈な苛立ちだ。 耳の奥で、それのものとも自分のものとも、あるいは彼のものとも知れぬ硬質な笑い声が響いた。ぐるぐると犬のように同じ場所を回り続ける私の精神を嘲笑った。その音に飲み込まれないように、切れそうなほどに力をこめて唇を噛み締める。 (笑うな、) 勝手に私を嗤うな。 (私は、) ―――私は、おまえに嗤われるようなものじゃない。 (私はそれでも、立ち上がる脚を失ったわけではない。) (ああでも、) 私がこうまで必死に睨みつけて、その嘲笑と戦っている、 『おまえ』とは、いまは私によく似たあれは、いったい誰だったのだろうか。 幻影の自分が瞼の裏でさげすむように唇を歪める。不意にその幻影の自分の横に、忘れようとしても忘れられない顔が浮かんで滲む。その二つ並んだ幻影の―――かつての私自身と、そして彼の顔の、どちらを睨みつけているのか、私にはわかったものではない。その幻は二つあると思えばひとつだけになったり、彼の顔だと思えば自分の顔になっていたりする。視界の端のことだから、要はよくわからないのだと考えるのは、めまぐるしくめぐる幻に理由をつけるのが億劫だからだ。 するりと、幻影の私の唇からは私のものではない声が滑り出る。横に並んだ彼の顔が一瞬薄くなって、揺らめくようにもう一度濃くなり、その幻覚も口を開く。二つの幻の声がぴたりと重なって同じ台詞を囁いた。 ―――モウアンタハ俺ニ怯エテ暮ラス必要ハナイ。 (怯える?私が?) 耳朶を打つ声は、吐き気がするほど甘ったるい劇薬だ。 私の逃げ道を塞ぎ続けたその声は、あっさりと自分だけ身を翻して逃げていった。私の手足を絡めとって、喉の奥に苦い毒を注ぎこんで、そうして自分だけ。 そのくせに。 (いまさらになって、そんな哀れむような目で。) ゆらゆらと滲む二つの顔の前に、煙るような青い目の長身の幻がありありと立ち現れる。その姿は最後ににらみつけたときと寸分変わらず、その手足は震えて萎えることなど知らぬと言いたげに傲岸に。それなのに、いまさらになって、 ―――幻影の(かつての傷を知らぬ私自身の顔と、私をただ甚振り続けた陵辱者の顔との、)無遠慮で加虐的な視線から今の私をかばって。 深い色の欲望を押さえ込んだ殉教者めいた声色で、呟き続ける。 ―――モウ俺ハ、 (そんな目で、) 「私を見るな……ッ!」 ――私は、今まで、あの私が否定してきた、凡庸な者とは違うのだから。 おなじだよ、と私の声が耳元で囁いた。 意味もわからず大きく首を振る。くらくらと揺れる視界の中、腹の奥に力を入れて背筋を伸ばす。たちまちのうちに、あの青い目の獣の幻は消えうせた。深い声音も、柔らかな吐息も、ここにはなにもない。 がらんとした部屋の中には、誰もいない。あの日私の肩を引き寄せて、ほんの短い抱擁のあと離れていった、あの体温もない。ぐるぐると回りだした臓腑にもう一度唇をかみながら、私はたった一人でかつての自分の影と相対した。 「黙れッ!!」 そうして、私はようやく立ち上がった。 萎えそうになる脚を叱咤しながらもう一度外界へ向かう。日差しも、微風も、曇天も、なにもかも―――そう、晴天すらもが私の邪魔をするような眩暈の中、エレベーターの前にまで行きつく。そうしてから、何度も何度も転びかけながら自分の部屋へ逃げ帰る。翌日はおなじようにして行き着いたエレベーターの中でボタンを押し階下へまで、その次の日にはマンションの周りを何度も何度も、狂った犬のようにふらつきながら周りつづけた。 立ち上がってしまえば、動き出すのはきっと、もう少し。必死に自分に言い聞かせるそれが、少しずつ、ほんとうに少しずつ私自身のなにかを削ぎ落としていく。 かつての私はまだ嗤っているだろうか。あるいは、君が見たら、もしかして。 ◆◆◆ 日が経つにつれ、私は客観的に回復していく。 その客観的な回復が、真の意味での回復と同義であるかどうかはわからない。 (だって、私は多分変わっている。) たった一歩歩くごとに、私の中の核が変わっていく。 書き換えられるよりももっと強い力で、削りたてられるといった方が近いやり方でその色を変える。そうして削られた私の核は、細くそぎとられた鋭く冷たいかけらをいくつもいくつも落とした。 (この棘を、君はきれいだといった。) 無様に私の前に膝をついて、手に入れたかったとまで真摯に囁いた。 あの日君が諦め、そうして私が放棄しかけたものは、今は私の指の中で形と温度をゆっくりと違えていく。 ああ、これは、 (これは私の勝ちなのか?) 私は君から、それを守りぬいたのだろうか。 一面それは正しいのだろう。なにしろ、君はこの舞台からたったひとりで―――ひとりだけで、逃げ出してしまったのだから。 けれどそれは、私が君の手から守り抜いたはずのものは、実はもう私の手元にもないんだ。 無力になった私は、それでも立ち上がろうとすることできっとかつての私と決別した。かつての私から変質してしまった。ほら、だからあの核は、君が焦がれたというあの光るものは、もうここにはひとかけらだって残ってはいない。私自身の手によって少しずつ削り取られ剥げ落ちて、もうここには影も形もない。 そうだ。君は私の価値観を、世界を―――私自身を、多分決定的に毀してしまった。 そうだとしたら―――これは果たして、私の勝ちと言い切っていいのだろうか。 なあ、いっそ。 (これが、君の計略であったならよかったのに。) だって私は変わってしまった。 あらためて自分でそうと気づいててしまえば、取り繕うよすがなどあるはずもない。 かつての私が大切にしていたもの、それがないとまっすぐに立つことすらままならなかった、硬質な核は全て、こうなった私が何度も何度もあがくたびに硬い棘を落として溶解した。いまや私の足元には、あの核の面影すらない、ただの泥のぬかるみしかない。それを嘲笑うはずのかつての私の影は、時が経つごとにどんどんと薄まり小さく、そして軽くなっていく。 そう、実際にここ数日は、もう耳の奥で私を嘲る声は聞こえないんだ。 ここの泥沼の中で立ち上がろうとする私の力が強くなるに伴って、かつての私が堅く信じ守ろうとしていた何かがますます頼りなく弱弱しく、いくつもの幸運に支えられていただけの矮小なものになっていく。けれどもそれは決してもともと矮小だったものではない。かつては間違いなくその硬質を誇っていたものだったのに、そのかつての私と決別した私の目で、矮小なものへ書き換えられていく。私は今、こうやってもがきながらあれを、紛うことなくあの日必死に守ろうとしたものを、私自身の手で汚して脆くして撓めて―――いずれはつぶして流しやってしまうのだろう。それならば。 (それならば、それは。) それは私の死だ。 ひどく観念的な死ではあっても。 それは私自身の手が私の頸を掻き切るのと、いずれおなじことだ。 (佐伯、) 君が手を引くのは、きっと一歩だけ遅すぎた。 君が私を抱きしめるのは、たぶんほんのすこしだけ遅すぎたんだ。 私の世界は、おそらくもう、一度決定的に壊れてしまった。 かつての私の価値観を、世界を、高慢で歪んだものと考えて切捨てることができればどれだけ楽だったか。挫折を知っての人間的な深みがどうの、成長がどうのとしたり顔で唱えてしまえれば、どれほど簡単に幕が引けたか。 けれどあの価値観は、私がなくしてしまったものは、間違いなく私の一部だった。諾々と否定して新しい像に挿げ変えてしまうには、あまりにも私自身が研磨し昇華し、血の通ったものにしてしまった、それは。 (だから、私はこうするしかない。) こうして、その像を単なる偶像として私から切り離すのではなく、私の手で脆くして叩き潰して、いずれは目の届かない場所へ流しやってしまうしかない。 あの像は、あの硬質な棘は、いずれ消えてしまう。 新しいものに取り替えるために棄てられるのではない、表面を塗装してその土台を活かすでもない。こうして、徐々に変質して、そうして壊れて私に飲み込まれるしかない。そうして、脆くされて飲み込まれた後のそれは、もう、かつてのそれではない。私が今目にしているそれは、かつての光とは明らかに。 (ほら、ここにはもう。) ならば私のこれは、成長ではない。 適応ですらない。 これは、単純な、そしてあきらかな―――変質だ。 胸のうちを蝕むのは、ひどく切迫した喪失感しかなかった。 もしも君がこれを、私自身を見失って惑う惨めな私の姿こそを望んでいたというなら、あるいはそうなった私が君の脚にすがりつくことを望んでいたというなら、私はその望みどおりに壊れてあの像を踏み潰し、崩れた塔を君に指差して、そうして君の勝ちだといえばいい。いっそ、そうであればよかった。 (そうしたら、私はこんな思いをいなくてよかったのに。) 勝者なき円舞台の上。そんな場所にひとり取り残されるよりも、変質してしまった今の私にはきっとそっちのほうが楽だったろうに。 (なあ、佐伯、) 私は、 ―――この、紛うことなき喪失感をどう扱えばいいのか。 (君はそんなことも教えてくれなかった。) だって、君も知らなかったのだものな。 ぞろりと肌の下を、何か粘着質のものが這う。 ―――『あんたのことが、』 (この、) ぎりっと睨みあげた目に、空気を凍えさせるほどの気迫が宿るのが自分で判る。 佐伯克哉、この、 「臆病者。」 こんなのは私じゃない、あの日にもそういいきれなかった私の本性がぞわりと彼に向かって膨らむ。のたうちまわるような日々から溜まった鬱憤のはけ口は、信じられないほど近くにあった。 「佐伯、」 (佐伯克哉、) おまえが、こうした。 わたしを。 (こんなにした。) 口に出して彼の名を呟いて、私は苦く笑う。 あの日耳元に流し込まれた言葉の意味を、私は今になってなお必死に掴み取ろうとしている。 私は彼を求めてなどいない。欲してなどいない。ただ、私は確固たる言葉が欲しかった。私を突き崩すだけ突き崩して、溶け落とすだけ溶け落として、変質させて―――そうして逃げ出した男の足跡から、形になって膨らんでいくものの確固たる姿が欲しかった。 あの日の彼の掠れた言葉が、幼い懇願が真実だというなら、その姿が。 壊れかけてたたずんだ円舞台の上の私が、取り残されたのではなく、彼を跪かせていたというのなら、その証が。 (ああ、) 滑稽なことだ。 畢竟、私は自分のかけらを取り戻すにも、私の世界をもう一度新しく構築しなおすにも、彼の誓いを、あんなにも震えていた声を足がかりにしなくてはいけない。かつての私の幻影が、弱弱しく、けれどはっきりした声でまた私を嗤う。目の裏で、かつての私と、それと彼のぼんやりした後姿が瞬く。 (君は、) 君は、今もなお私に跪いていると。 そう確信できたのなら、私はきっと救われるんだろう。 私がそれを求めるのは君への愛のためじゃない。ましてや許しのためでもない。 私自身の―――変質した核を流しやる、そのみちゆきのためだけに。 洗ったシャツに袖を通した。目に付く家具はあらかた叩き棄ててしまい、もう鳴らなくなって久しい携帯電話の処理に首をかしげる。コールセンターへの電話一本で解約というわけにはいかず、さんさんと日の照る中、解約のために最寄のショップへ脚を運んだ。事務的な話しかしない店員にだいぶ救われた思いをする自分がおかしかった。帰り道には新聞だけを何誌も買い込み、部屋に戻ってきてから機械的にその記事を目で追う。 一誌読み終わるまで集中力が続かないのには本当に参った。目を離して気分転換することすら満足にできず、何度も紙面を閉じて掌から新聞を離して大きく息をつく。そのままわずかな時間うつらうつらと寝入ってしまうことに気づいたときなどには、呆れの吐息しかもうでてこなかった。何度もそんな中断を交えながら同じ記事を読み直し、一日が終わったとき、ふと気づけば3つほどの記事にしか目を通せていなかった。 何日かかけて一誌を読み終えて、けれど一面に何の記事があったのか思い出せなくなっていたから仕方なくもう一度最初から読み直した。少しずつ集中できる時間が増えていくという自覚ができるころには、読み返しすぎた最初の日の新聞の記事のレイアウトをはっきりと覚えてしまっている。あわてて間が空いた新聞を何誌もまた買い込んで、自分の集中できる時間をかけるだけかけて読み込む。それもまた全部読み終わる頃には、話題が古くなっている。なんて低レベルなイタチごっこだ、とぼやきつつそれでももう一度、もう一度。 そんな療養生活を始めて何ヶ月か過ぎた頃か。 不意に、契約しなおした新しい電話番号の携帯に友人からの着信が入った。 予想はしていたことだったが身体がすくんだ。呼び出し音が鳴っているうちにとることができない。所定の保留時間のあとに留守電に切り替わるのを、何を恐れてかこわごわと眺めやる。切れた電話をたっぷり5分はいじったあとにつなぎなおした回線の向こう側から、不義理をからかう声が聞こえる。それに応えて聞かせた笑い声がひび割れていないのが、いっそ不思議なほどだった。 何度かそんな電話を繰り返したあと、柔らかなその声に応えてなじみのショップに脚を向けられたのは、私が解放されてからさらに何ヶ月後のことになるのか、そんなことは自分でも数える気にもならない。 そうして日常の瑣末事を片付けながら、それなりの生活をとり戻す為の足がかりを私は探り出す。 本気で探れば、新しい居場所のための方策はわりと近くに転がっていた。 かつて引き抜きの話を持ちかけた経営者の手を借りて、私はもう一度社会の中へ向かう。気に入った部屋を借り家具を買いそろえることも、適当な本に視線をむけて人並みの時間集中力を保つことも、さらに一歩進んで腹に一物も二物もある古狸とやりあうことも、社会の中に戻った私は容易にやってのけた。 そうやって自分自身の脚で立ち上がってなお胸の奥に沈むのは。 静かに存在を主張する不可視の澱だ。 「ふん……。」 ―――購入することも開栓することも容易にできたはずの馴染んだ酒精は、その馥郁とした味と香りを、私の中には一片たりとも残そうとしなかった。 喉を焼くだけの感触に辟易して、半分以上残ったそれをシンクに流し込む。ぼんやりと流れていく赤黒い模様を眺めて、好みのはずの風味が全く味わえなかった理由に思い当たると、私は一人だけで喉を鳴らして笑った。 ああそうだ、この色は。この赤黒い、沈んだ鉄錆の色は。 (佐伯克哉、) 「私は昨日、また君を殺す夢を見た。」 夢の中の君は、もう表情もおぼろげで。 (君を殺しても、なにも私の手には戻ってはこなかった。) 私のかつての世界も価値観も、あの核も。 以前の生活も君自身も、そう、なにもかも。 (なにもかも、変質したままだ。) 夢の中で私の手を汚したはずの赤黒く滑る温かなものも、倒れていく君がまるですがるようにつかんで私のスーツの肩に残した皺も、視界の端で瞬く澄み切った無数の星影も、無機質な金属が君の皮を裂き臓腑を抉るときの背筋が凍えるような生理的嫌悪感とそれに伴うわずかな興奮も、震える君の苦鳴と吐息すらも、全てみな悉く、酷く作り物めいて興ざめでしかなかった。復讐の陶酔も、愉悦も、私からははるかに遠かった。 (それに、なあ。) 『もっと早く、あんたのことが、好きだって』 (……その言葉すら、昨日の君は言ってはくれなかったな。) わたしは、 (もっと早く、君のその降伏の言葉が聞きたかったんだ。) じわりと目の前、シンクに流れていく酒精の色が歪んだ。 自分が何のために、誰のために泣いているのかすら。 「……私には、もうわからない。」 夢の中の私は、泣いていたんだろうか。 たとえばそんなことすら、私にはわからないんだ。 それなのに、 (おまえ、) おまえは、あの夢のなかで笑っていた。 私が一度も見たことのないような、穏やかな満たされた笑みで、私に。 いつの間にか、私を嘲笑うかつての私の幻影は消えうせていた。 ここ数ヶ月は、もうちらりとも私の前には現れない。私は、あの私を掻き切ってしまった。 だから今私を苛むのは。 (どうしようもなくかき回し、混乱させているのは、) ああ、鉄錆の臭いがする。 (君だけだ。) いっそうっとりと、私の唇が笑った。 ◆◆◆ 「はじめまして、御堂さん。」 完璧な笑顔で目の前に立つ男には、一片のためらいもない。差し出された手には目立つ荒れも傷もない。何度もの夢でみた血糊など、傷跡など―――あるわけもない。 「―――はじめまして。」 硬い声でそれに応える。触れ合った指は僅かに冷たく、乾いていて、予想以上に堅かった。 デスクの上の何枚かの書類はきれいに整えられて契約の印も色鮮やかに、ほんのわずかなぶれもない。観葉植物の無機質な緑色が蛍光灯の光をはじき返す。不自然にならない程度に視線をそらした先には、硬質なガラスが外界を写しながら騙し絵のように彼の後姿を写しこんでいた。 あの日間違いなく私の前に膝をついたはずの君は、まっすぐに背を伸ばして私につくりものの笑顔を寄越す。その指先は冷たく乾いて、その視線は無遠慮にならない節度を保って相手を見据える。 それでも。 それでも、私の耳の中には、この一年必死になって保ち続けた君の降伏の言葉がある。 変質した私が、それでも、否、それゆえに決して手放せなかった、君の声がある。 (君は、嗤うだろうか。) ―――『もっと早く、あんたのことが。』 君の見かけの怜悧さを全て裏切って、あの日耳に流し込まれた劇薬が、どろりと厭な粘性をもって私の内側にこもってくぐもる。何度も夢で見た君の生臭い血の匂いの幻が、その粘性と入り混じって私の内の、深く薄暗い場所を揺さぶる。 それなのに、君のその見かけ上の整った仮面は、小揺るぎもしない。 もしかしたらいま、私が部外者の存在にかかわらず君の行状を洗いざらいはいてしまえば、その仮面は揺らぐのだろうか。たとえばいま、私が抱えているこのどうしようもない獣性を、君の前に晒してしまえば、視線を流して煽って、いっそそうしてしまえば? (佐伯、) 私の視線の揺れも、熱度も全て無視して、彼の言葉は淡々と続く。噛み付く機会があれば、私はきっと想像したことを一通り試してみたかもしれない。それなのに、彼は私の中の獣にその機会を与えない。取り繕った綺麗な笑みは、そういった淫靡なもの、生生しいもの全てを無言で拒否し続ける。 いまさらになって。まるで、何も無かったかのように。 ―――『だから、あんたも、忘れろ。』 「………ッ!」 文句のつけようも無いスムーズなしぐさで君が来客を理由に私の前を辞すと同時。喉の奥でくうと僅かに妙な音が漏れた。 あの日の君は、どこへ行った。 (そして私は、何を望めばいい。) 変質した私は、ならば何を望めば。 ―――ああ、いま。 私の胸を焼き焦がすのは、まぎれもない失望だ。 喉の奥が苦く、熱い。 (こんなにまで激しい、これは失望だ。) (佐伯、) 取り残された私のなか。 くすぶって燃え広がる赤黒い火の手は、きっと空まで届く。 どうやって関係者にうまく断りをいれ、彼を追いかけたのかは、もう焼き払われた理性では覚えていられなかった。 ひらひらと水気の少ない雪が舞う。傘を差す手間すらも厭って、いくつかの人影は早足に駅へと急ぐ。見上げた街頭の光を遮って、いくつもいくつも白いかけらが舞い降りてはすぐに解けて消える。 くしゃ、と靴の下で積もりきってもいない雪が踏まれ解けて水になった。まつげに落ちた雪が、視界の邪魔をする。早足になれば、いきおい靴とスラックスのすそが濡れる。 にらみやる先で、長身の男が早足で私の視界を通り過ぎようとする。 求めてなどいない。ましてや、欲してなど。言うべきことなど何も形になってこない。 ただ言葉にならない焦燥が、今の私には、核を失った私には、こんなにも重い。 けれど、 (いまなら。) 夢ではなく、たしかに見える場所にいつかの、私に背を向けた男の背中がある。手を伸ばせば、その肩に。一歩踏み出せば、とどきそうだ。 引きつって動きを忘れた腕に痺れをきらし、私の喉が彼の名を呼びつけた。 一年分、私の中にわだかまり続けたその空白を叩きつけた先、びくりと、本当にわずかに、注視していてすら見えない動きで肩を揺らした男がゆっくりと脚を止めた。男の背が私の声を振り切ることもできずに、棒を呑んだように一瞬立ちすくんで、そうして振り返った。 (そうだ、) 私は、知っていた。 (お前は、私の声を振り切ることなどできない。) さあ、跪け。 まだ、私の焔は鎮まってなど。 かつて君が引きずり出した、私の中の浅ましい獣が、君の潔癖な拒絶を押し切って躯を伸ばす。 あわせた視線が揺れる。 君が今、目を細めて眺めているのは、そして同時に君を凛と睨みつけているのは―――そう、私にだってわかる。 それは君の中の、理想の私という名の幻影だ。 君がかつて私にそう強いたように、今度は私が、君の中のそれを崩す。 (そしてこの手をとって、) 君が私に跪けばいい。 「佐伯、」 これは、私が君に望むものは、ひどく重く甘やかで、そして少しだけ倒錯しているのだろう。捻じくれた不器用な形の、ところどころが毒々しい色遣いの、けれども間違いなく暖かな空気をまとうそれを、私はいつからかずっとひそやかに願っていた。欲していた。焦がれていた。 彼の視線が震えて、わずかにおののく。目を伏せようとして伏せきれず、ちらちらとこちらを伺う。その彼の臆病な動きすらもが、どこか私の中の暗い興奮を煽る。まるで彼には似合わない、無力な獣を象った仮面の下、去勢しきれない彼本来の奔流が立てる音までここには聞こえる。どこか嗜虐的な悦びに、思わず私の喉が鳴る。 (逃がすものか、) だってこれは、佐伯。 私は穏やかに君の逃げ道を塞ぐ。かつて君が、あるいは君の幻影が私にそうしたように。 逃げるんじゃない。他のどんな物から、どんなに無様に白地に逃げようとしたっていいが、他でもないこの私の前からは、一歩、否、半歩たりとも逃げるなんて許さない―――そう、逃がしてなどやるものか。 だってこれは、佐伯、 「君の、」 (佐伯、君の責任だ。) (ああ、たった今。) 長い間飢え続けていた二対の牙が、目の前に差し出された獲物の喉首に深々と噛み付いた。 fin. |
2010.12 written |
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