兎×虎 

時期
マーベリック戦後

   



細かな雪を吹き散らす風はずいぶんと勢いが強く、そして冷たい。
 白い吐息は、幾度吐き出しても、あっという間に夜の闇に溶けて消えた。


「今日も、雪だね。」
 あともう一時間も過ごせば日付が変わる。そんな時間の集合墓地には、当然のことながら彼以外の人影はない。
 開いた傘を軽く肩に立てかけて、青年は目当ての墓石の前に屈みこむと、冷たい石の上に薄く積もった雪を無造作に払いのけた。
「昨日は、ごめん……久々にここに来れたって思ったら、」
 言葉を切って僅かにずらした視線の先で、ちらちらと街明かりが揺れた。とりどりの色と明るさを持つはずの街の灯は、目を眇めて眺めやればたった一握りの砂の山にしか見えない。わずかにその光の山がにじんでぼやける。
 ああ、またか。
 じんと目の奥が熱くなるのを感じて、薄い唇の端に苦い笑いが浮かぶ。
「……いろいろ、あったんだ。なんだか、涙もろくなったみたいで。」
 昨日も今日も、やっと見れた顔が泣き顔でびっくりしたでしょう、小さく呟いて浮かべた苦笑と涙の滲んだ声は、けれどもどこか優しげな色に満ちていた。
「あ、」
不意に、ひときわ強く冷たい風が墓地を吹き抜けた。ぱさりと音をたてて、傘の上に積もっていた雪が滑り落ちる。



 十年よりも長らく両親の墓前に足を運ばなかったのは何故か、もし人にそう聞かれたとしてもバーナビーは曖昧な笑みしか返せない。願掛けのようなもの、復讐の決意を暖かな思慕で鈍らせたくないから、あるいは単純に辛かったから、なぜかその気にならなかったから、もしかしたら誰かの意図で?
 それらの答えはどれも正しいように見え、また同時にどれも正確に胸中を言い表す言葉ではないような気もする。そんなふうに、自分の行動にさえ自信が持てない理由はバーナビー自身がわかっていた。
(ああ、結局それだ。)
白く凍えた長い指が、痛みも重さも無いこめかみを、それでもそっと抑える。―――すべてが終わった後でも、バーナビーは自分の記憶に明確な自信を持てずにいる。
(結局、それだ。)


 迷いなく事実だと長く確信していたことが、自分自身にとっては紛れもない現実が、嫌になるほどまざまざと目裏に再生されるリアルな質感が。それら全てのことがまるで手のひらを返したようにその質量を無くす、あのどうしようもない違和感は、この身をとりまく全てのものが瞬時に張りぼての裏側を見せて嘲り声をあげるときのあの焦燥は、踏みしめた地面がどこまでも沈み溶けて、そして下ろした足が空を掻くあの無力感は。―――あの恐怖は、きっと誰にどう説明したところでわかってはもらえまい。
 それでも両親のほんとうの仇を打ち倒した後、ひと一人の記憶をただの過去の残像だと、そしてその欠損や虚偽をもう過ぎ去った痛みだと、そんなふうに考え高をくくっていたバーナビーは、すぐさまそのしっぺ返しを食らった。それも、だいぶんとしたたかに。
 自分が自分であるためには、流れ去った時間すらもが必要になる。
 身近な記憶のなか、把握できないまま確かにそこにある、人工的な空白や逆さま模様は、バーナビー自身の意識よりもはやく彼の精神の内面に深い矛盾をもたらした。その深刻な内部矛盾が表層に現れるのは些細なこと、たとえば単純になにか一つのことへの拘泥であったり、逆に明らかに目を引くはずのものが全く意識にあがらないことであったり、感情の抑制が思いのほか効かないことであったり、その他もろもろの誰にでもある小さな日常の不具程度のことではあったが、それら瑣末事も積み重なるから性質が悪い。一週間もたたないうちに、それら日常の精神上の不具と、マーベリックの死によってその支配を完全に逃れたせいか頻発する記憶の不良は絡み合って積もり積もって、バーナビーは日々凄まじい不安感に転げまわる羽目になった。これといった対象を挙げられない不安感は、そのせいで対処法もない。
 きっとそのせいだろう、今のバーナビーは「なぜ」と問われることがひどく苦手だ。それに対しての答えに自信がもてないだけではなく、もっと根源的な場所で、きつく閉めておいた不安の蓋が開きそうになる。
 要は、頼りない記憶に引きずられて、彼の行動や意思の核となるもの、本来自明であるはずのものまでもがどうしようもなく不明瞭なものになってしまっているのだった。自分自身の抱く自己像ですら、ところどころが無理にひしゃげて歪んだ形になってしまっていることを青年は自覚している。これが現在二十六になる青年かと思うと自身でもわずかに嫌になるが、でもそれがバーナビーの形だ。バーナビーの核はいまだに奪われたまま、再生の地はひたすらに遠い。
 けれども日が経つにつれて、若草の眼はただ嘆き慄くだけの時間を蹴り飛ばした。奪われてしまった痕である空洞はこれからゆっくり時間をかけて埋めていくしかないと、やや諦念じみた前向きさが育つ双眸は、若者らしい柔軟性と負けず嫌いの気性の烈しさに満ちている。青年は繊細なだけではなく、強靭で苛烈で、そしてしなやかだ。
 そう、鮮やかなヒーロースーツを纏った期待のルーキーだった頃と、その本質は全く変わらない。


 こめかみから指を離すと、バーナビーは広い肩をひょいとすくめた。
「ちょっとショップに寄るのが遅くなっちゃって、こんなのしか残ってなかったんだけど。もっとあったかそうな色のほうがよかったな。」
 言葉のとおり、墓石の前に手向けられた花は降りしきる雪よりも儚げに白い。
 その花びらを手慰みに弄り回す、きれいに整えた爪の上にただ降りかかった雪が、ゆっくりと冷たい輪郭を崩れさせる。こぼれた吐息がまた一つ、鋭い風に揺れて散った。
「また来るから。今度は、なるべく早くに来るよ。」
 滲みかけた涙をなんとか押し込めて、青年は形の良い唇で笑った。





 共同墓地から車で十五分。それとたった三本の路地。
 たったそれだけを抜けると、そこは星空もくすむほどの華やかな通りになる。
 わずか二十分でもたらされた目の前の煌く街並みに、知らずバーナビーは目を眇めた。
 冬篭りのこの時期でも、シュテルンビルドでは何百何千もの煌びやかな電飾が、冷え切った空気にきらきらと反射する。どうかすると街全体がぼんやりと薄く発光しているような錯覚すらおぼえてしまいそうだった。この街の名前が、星の海を指す名前というのは、あまりにもぴったりとはまりすぎていて、いっそ皮肉なほどだ。とがった風の音に目をやった先、賑やかな音楽がさざめく先、すれ違う男女が見つめる先、その全てに、きらきらしい光の束が流れては踊る。
 そんな地上の星座の街路地を歩むバーナビーは、ふと小さく背を震わせた。―――陽気な街の雰囲気につられて、ごく僅かにわくわくと浮き立つ気持ちとは裏腹に、身体の芯の冷えがだんだんと本格化してきている。
 無理もない。なにしろいまのいままで、傘こそしっかりさしてはいたものの、雪の積もった墓石の前で、立ち尽くしたりしゃがみこんだりと―――それはもう勝手気ままに振舞っていたのだ。当然そのコートは、裾から伝った水分でじっとりと濡れそぼって色を変えているし、濡れたコートが触れるインナーも居心地悪く湿ってきている。その冷たい着衣を通して背中にゆるゆると這い上がる寒気は、このまま放っておいたら明らかに碌なことにはならない。
 帰ったらまず熱いシャワーを頭から浴びようと決めて、青年は脚をはやめた。コートがずぶ濡れなことについてはいまさら取り繕ってどうなるものでもないから、いっそ堂々と濡れ鼠のまま家路を歩む。
 どこまでも派手できれいで、街路樹の一本すら洗練されたこの街の夜にはこんな湿っぽい格好はあまりそぐわないかもしれないが、ここは幸いさまざまな人間が集まる多様の都市だ。このきらきらしい路地にだって、辛気臭い格好のハンサムの一人や二人くらい受け入れる余地は、きっとある。




 こつん、と、足先が小さな小石を蹴った。
 その感触に、唐突に瞼の裏にいつかの冬の日の記憶が浮かぶ。
(……ああ、いつだったかな。)
 右手を父に、左手を母に預けて。
 まるで今歩くこの光の路のようにきらきら光る場所を、自分は何の不安も恐れもなく。
 ふいに流れてきた瞼の裏の光景は暖かく、胸の奥にははっきりとその温もりがめぐる。



(…… それでも僕は、)
どうやってそれを信じていいか、皆目、見当もつかないんだ。
(僕の記憶は、)
 いっそどこまでも簡単に、僕にこうして嘘を吐く。
『バーナビー、わたしたちのだいじなこども、』
(ねえ、その声ですら、いまの僕には。)
『たったひとりの、わたしたちの、』
―――父さん、母さん。
『あなたは、わたしたちが、絶対に、』
 まもってあげるから。
 記憶の中の声を辿って、乾いた唇が動くのが自分でも分かった。




 つんと鼻の奥が痛んだ。
 目の奥で生まれた悲しい熱が、じわじわと鼻や喉に落ちようとしている。
 バーナビーには、確かなものと自分で言い切れるだけの思い出がない。今思い出す光景も音声もひどくリアルだが、それでもこれが確かにあったほんとうのことの欠片なのか、それとも仇によって植え付けられた作り物の記憶なのか、あるいは混乱した頭が自分を守るため必死に作り出した優しい幻なのか、どうしても分からない。
 なんとかしてそのうちのどれなのか突き止めようとするたび、あるいは無理やりそのうちのどれかだと自分を納得させようとするたび、柔らかな記憶はぐちゃぐちゃに崩れひっくり返り、悪夢として牙を剥いた。柔らかな記憶の色彩が徐々にきつい色になり、そして最後にはリアルに赤黒く、めちゃくちゃな姿に破裂してしまう両親の姿まで幻視しては大声で泣き叫んで飛び起きる、そんな夜をバーナビーは何度も何度も繰り返してきた。この一年で繰り返し辿ったそんな夜の幻視は、二十年来の曖昧な悪夢よりも、もっとグロテスクで喪失感が深く、そして衝撃が強い。



 深く考えてはいけない。
 これを、この優しい思い出を、捕まえて問いただしてはいけない。
『わたしたちが、ずっと、ずうっと、守ってあげる。』
 温かい腕、柔らかい声、自分と似た体温が間近で息づいている。ああ、触れる温度すらこんなにも確かな思い出を、まっすぐに見据えてはいけない。
『わたしたちの、かわいいだいじなこども。』
 今、瞼の裏に浮かぶのはきれいな優しい父母の顔と声だ。これは、
(いまさら痛めつけられて、穢されなくてもいいはずのもの。)



 記憶の中の両親の声を、悪夢にならない程度になぞりながら、足を早める。
 昨日墓前で取り出した写真は、汚れると悪いからと今日は部屋に置いてきてしまった。 
 あの写真を、早く見たい。
 今なら分かる。どうして昨日、二十年ぶりの墓前であれほど、傘を放り出してまで号泣したのか。一日たってもう一度両親の眠る場所をゆっくりと眺めて、そのあと華やかな街中を歩いて、それでもなお涙腺が緩むほどに心を揺らしたのか。墓前で復讐の行方を告げるでも、仇の末路を教えるでもなく、生きていて欲しかったと子供じみた顔も隠せずに、両親への思慕の言葉のみが溢れ出たのか。
 バーナビーの記憶は嘘をつく。だからこそ、あのときに気づいたパスワードの意味は、単純な数字の示す言葉は、曖昧な記憶や揺さぶられる感情よりもはるかにはっきりとバーナビーに届いた。確かに両親に愛されていた、望まれていた。それが自分の曖昧な記憶の中だけではなく、数字というひどく単純な、乾燥した事実であったことこそが、追い詰められかけた心を救った。
若草の双眸が映しそして焦がす、美しくも不確かな世界で実感するよりもはるかに、確固と証明されたそれは、力強かった。



(僕の誕生日、)
 僕が生まれてきたことを、あの人たちが祝った日。
 あのひとたちが、
(僕のために祈った証、屈みこんで僕を抱きしめたときの重さ、)
 見上げた先、地上の星座の灯が楽しげに揺れていた。つられて笑ったはずの顔は、近く覗きこめばきっとこぼれ出ようとする涙で引きつっていて。ああ、こんな顔、
(―――誰にも見られなくて良かった。)
 スーパースターを望む市民にも、父にも母にも。幼いときから見守ってくれた今は亡き優しい人にも、一時期とはいえ肩を並べて笑いあった仲間にも、華々しい出撃の背中を守り補ってくれた名も無い何人もの協力者にも、そして、
(あなたにも。)





 街の灯に追い立てられるように早足で、綺麗に手入れされたマンションの前にたどり着く。あるかもしれない他人の視線を気にしている自分が、決壊寸前の涙腺をこらえながら冷静な顔を保とうとする。それでもそんな取り繕った冷静さは所詮、表だけのことだ。頭の中は、もうすでに僅かに濁った音を立てて軽く混乱している。
(早く部屋に入ってしまわなければ。)
 エレベーターが到着する無機質な音、乗り込んで自室の階数を押して、扉が開く。上に向かって移動する箱の中には不愉快な振動やきしむ音もなく、お手本どおりのスムーズさで上昇が止まって、そして扉がもう一度開く。エレベーターから降りて、大股で7歩、8歩。9歩目で自分の部屋の扉を開けて、しんと静まり返った部屋に入る。
 目を伏せて、一歩踏み込む。あと何歩か踏み込めば、家人の帰りを察知したセンサーが柔らかな色の明かりを燈すはずの位置。手探りでたどる壁の乾いた感触、自分の纏った湿気で重くなる部屋の空気、



 唐突に、伏せていた目の先、目蓋の裏がふわりと光を浴びたときのように明るくなった。
「……え?」
 そっと開いた若草の双眸の中。その先の人影。
「…………!」



 さっきまで真っ暗だった部屋の中には、目を開いた一瞬で温かい光が満ちていた。
 その光の中、こちらに背を向けて、カウチに深く腰掛ける痩身の男。
 ついとその首がこちらにひねられて、茶目っ気を帯びた黒曜の目がきらきらと光る。
 ――遅かったな、バニーちゃん、
 男の唇の動きは見えないまま、ただ低く柔らかな声だけが青年の鼓膜をなぞる。
 ――今日は帰ってこないのかと思った。
 こっちに来いよ、そう挙げられた右掌が柔らかく促す。
 幻覚だ、頭の中で冷静な自身が呟くが、それと同時に男がひょいと肩を竦める。
 ――バニー?
 かじかんだ指の冷たさは、麻痺したせいかもう、そう辛くはない。ああでも、そっと近寄って頬に指先で触れてやったら、きっとこの表情豊かな双眸はくるりと飛び上がって驚くんだろう。それから仕返しだとかなんとか、そんな子供じみたことを言って頬をつねりにくるんだ。きっと、その指は温かい。
 向かい合う黒曜の目がまぶしいものを見るように細められた。
 ああ、あんな笑い方を、そういえば彼は良くしていた。
 こんなにも優しい笑い方を、そういえば。


「虎徹さん……ッ、」


 まろぶようにして駆け寄った先で、暖かな幻灯が不意に掻き消えた。
「あ……、」



 しんと静まり返った部屋には、何の明かりも、音も、そしてあなたの温度さえ。



 バランスを崩しかけた青年の身体が、たたらを踏んでそれでも踏みとどまる。未練がましく若草の双眸があたりを見回して何も捕らえられずに、バーナビーは小さく首を振った。
 異常に重く感じる足を何歩かすすめて彼の幻が座っていたその横へ。その途中でセンサーが働いたのか、かすかな音がしてオレンジ色の暖かい光が暗い部屋を暖めた。それはさっき彼が感じた温かい光よりもはるかに人工的な光度、はるかに硬質な熱源でしかない。
 バーナビーはゆっくり膝を折ると、誰も居ないカウチの前に跪いた。そうして腕を柔らかい座面に投げて額を乗せ、深く吐息を吐き出した。軋みもせずに黙ってその吐息を受け止めるカウチは、ただ柔らかく、また室温と同じくひやりとしている。
 口角が、バーナビー本人にも自覚できないほどほんの僅かに上がった。



「…… ひどいな。」
 全く、こんな日にまでこんなおせっかいを。
「あなたはいつだってそうだ。」
 一から十まで全部全部知ったような顔をして、それでいてかえってこちらが辛くなるようなことばかり。こちらが必死に纏っている殻を剥ぎ取って、柔らかな内面にやさしい爪を立てるようなことばかり。せっかく眠っていたものを逆なでて擽って気づかせて、そうして僕を弱くして、―――そうだ、それも平気な顔で。
「ひどいひと。」







 それでも、彼をなじっていた自分の声はとても甘く優しいものだったと、青年は後になってから思い出す。
 


 そしてどういうわけかバーナビーは、その夜あの悲しい夢を見なかった。






fin.



2012.1 written
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