ルート 眼鏡克哉×片桐 Bad ED "君がいないと僕は…" 時期 エンディング後 |
「どうしてですか?」 りん、と軒先で風鈴が鳴った。 一瞬だけ吹き込んだ強めの風が鳴らしたのだろう、それは一度だけりんと音をたてると、もう音も立てずにひらひらとわずかに揺れるだけだった。 風の音が絶えれば、ここにはもうなんの音も無い。 そのことを妙に居心地悪く感じて、少年は言葉を続けようと何度か唇を開いて、そうして投げる言葉を見失って黙り込んだ。 「『どうして』、ですか。」 その静けさのなか、問いかえすというには妙に抑揚のない、やわらかな色合いの言葉が返る。 無音の空間をきっと揺らすことも無い、ひたすらに穏やかな表情に、少年は半ばむきになって言葉を重ねる。 「どうして、殺そうとなんて……あなたが。」 「君には、理解ができないことかもしれません。」 「おれだけじゃない。あなたを知ってる人なら、きっと、」 言葉を切って見つめた先の表情は、やはりひたすらに穏やかなままだ。 「…きっとみんな不思議に思います。」 (どうして、あなたが。) 問いかけながらも、おそらくそこには納得のいく理由がないことを、少年はそのときにどこかで予感していた。 きっとどんな理由を並べられても、納得などできない。 たとえば怨恨とか、衝動とか、事故とか、自分の小さな頭で思い浮かべられるようなそんなありきたりの理由でこの人がそれをやってのけられるということ自体が、そのとき少年にはひどく不自然なことにすら思えた。 「僕を知っている人ならみんな、ですか。」 抑揚の無いただ柔らかな言葉に、ほんのわずか、苦笑の色が乗った。 亡霊 amen, Ashes to ashes, dust to dust, amen. だいぶ距離の開いた隣家。 その表現はやや的を外していることは自分でも重々承知している。いかに都心の喧騒を離れたとはいえ、都内の住宅地でそんな表現ができるほどのスペースはそもそも物理的に無い。 距離にしてみればわずか数歩。そう、だから、距離の開いていようはずもない。 けれども、そこにはなにか決定的な隔たりがあった。別に自分とその家の間だけではなく、その家はどこか、住宅街の全ての家々の窓からひどく隔たっているように見えて仕方なかった。 たとえば、温度、音、湿度。そういった日常を形作るごくふつうのものが、その家から漏れる明かりからはめっきりと抜け落ちていた。 (それも、違和感なく。) そう、誰にもそうと気づかれないほど、目立たずに。 まるで当然のように、抜け落ちていた。 なにがどう、というわけではない。けれども、膚の感覚が感じる隔たりは―――ごまかしようもない。 あそこには、 ―――いったい、なにが棲んでいるのか。 少年の彼への第一印象は、そんな手酷さである。 日没までぎりぎりで持ちこたえていた曇天が、日が沈むとほぼ同時に音をたてて決壊した。 (傘を持ち出すまでもない距離だ、って思ったんだけど…。) 小走りで少年は隣家の軒先に駆け込み、もう5分早く出てくればと役に立たない後悔をする。夏の白雲から吐き出される雨は、秋のしとやかなものとは全く異なり、いっそ暴力的といってもいいほどの勢いを誇る。高々走って数分の距離とはいえ、濡れたワイシャツがびったりと首筋にはりつくのが、盛夏の熱気とあいまってなんともいえず不快だ。 駆込んだ軒先の下、軽く舌打ちをして、彼は律儀に腹の下に抱え込んで雨から守った回覧板をみやる。古ぼけてほつれたその分厚いボール紙の端っこは、それでも少し水気に濡れていた。 「降るなら降るって、言えばいいんだよ…」 ちょうど意地悪く、回覧板の存在を思い出した瞬間に土砂降りになってくれた天候と、わずかの距離だと傘を差す労を厭った自分のほんの少しの怠慢、あとはあたらない天気予報や、果てはなんで回覧板だの町内会だのいったものがこの世にはあるのか、そんなことまで腹を立てかけて、不意に脱力して首をふる。 「やめよう、」 (果てしなく不毛だ。) そっと隣家の扉に、わずかに濡れた回覧板を立てかける。 そのままきびすを返そうとして、降り注ぐ雨の勢いに少年は鼻白んだ。 「……濡れるかな。」 言ってしまえば年台物の回覧板だ。別にいまさらちょっとやそっと濡れたところで特別どうというところもあるまい。それに、隣家からはわずかに明かりも覗いている。隣人が不在ということもないなら、そのうちすりガラス越しの四角の影に気づくだろう―――畢竟、回覧板はそうそう長く放置されはしまい。 そうは思うのだが。 少年はむうと眉を寄せた。 こういうときに育ちのよさというのは―――ごく普通の一般常識をしつけられる機会を頂いてしまった程度にはあるそれは―――少しばかり不自由というか、不便だ。 そう、たとえ少しばかり濡れた汚れたといってどうということもないはずだ、が、このまま短時間とはいえ放置してしまうのに気が引けないと言えば嘘になるほどには激しい雨である。現在かろうじてこの軒先は濡れてはいないが、もしも雨がやまずにあともう15分もたてば。 (濡れるかな。) そんなことがえらく気にかかる。 それに。 お使いを満足に果たせない可能性を意識しているくせにあえてそれを放置して帰るのは、隣人の―――あの、得体のしれない「おじさん」を強く意識しているようで。 (バッカバカしい。) ひとつ息を吸うと、少年は伸び上がって呼び鈴を押した。 機械的な呼び出し音、ひとつ。 無機質な沈黙の向こう―――いらえはない。 もう一度伸び上がって呼び鈴に手を伸ばしたとき。 「だから、俺が聞いてるのはそういう……ッ!」 思わずぎょっとするような大声が扉の内側から響いた。 (うっわ、誰。) どう聞いても考えても、あの「おじさん」の声ではない。 否、聞いただけで判別できるほどあのおじさんの声は自分にとって親しいものではなかった。 それでもはっきりと判る。あれはあのおじさんの声ではない。 (え、っと……。) 状況から鑑みるに、これは取り込み中というやつか。 (これは、仕方がないよな。) そっと回覧板に目を落として心の中でぐちる。いちおう声掛けはするという最低限の礼儀は果たした。ずかずかと取り込み中の場所に入り込むには、濡れる回覧板というのは理由としてはどうにも軽すぎる。少年が踵を返そうとするより一瞬早く。 「もう今日は、俺、失礼します!」 太い息と一緒に、まるで吐き捨てられるかのような声がして、ぐんっと扉の向こうで大きなものが動くのがわかった。 (うわ、こっち来た!) おそらくはおじさんの家への闖入者だろう、さっきの怒号の持ち主―――重い音が玄関に向かって突進してくる。 あと5分遅く来ればよかった、そんなことをぼけっと考えているうちに扉ががらりとあく。眉をいからせてずいと出てきたのは、なんとなくついていた予想どおりのいかつい大男。どうでもいいが第二ボタンまで外したワイシャツがなんというか、非常に、 (見てるだけであつくるしー。) そんなことを考えつつも、吹き飛ばされそうなその剣幕に思わず腰は引ける。 「ん?」 眉を怒らせたまま男がじろりとこちらを一瞥する。物騒な体格のわりに瞳自体には妙な愛嬌がある。その相貌が、着崩したスーツとあいまって切迫感を間抜けに薄める。 そのおかげで少年はなんとか、問答無用で踵を返して逃げ出すことは回避した。 「いやあの、回覧板。」 手に持ったそれを意味無くひらひらと振ってみせる。太い眉をもう一度ぐっと寄せた男は、無言でその回覧板を目で追った。 「……ああ。カタギリさん、回覧板が来てますよ。」 大きな男が中に向かって怒鳴るように言い立てる。 (カタギリさんって言うのか。) ごく近くに住んでおいてなぜか今まで知らなかった。その名前を口の中で転がしながら、少年はおつかいを地面におく。 このまま帰ってしまおう。ちょっとカタギリさんがどんな人かは興味があるけど、この男がなんだかうるさい上に暑苦しい。じりりと回れ右をした、その途端。 「あ、おい、待てよ!」 (…なんで俺を呼ぶ。) 「…なんですか。」 どう見ても、大して親しくも無いご近所の子供がこんな局面で呼び止められなければいけない理由など、 「濡れてっぞ。風邪引く。」 ―――どうやら、男のほうにはあったようだった。 男はごそごそとかばんを探ると、二つほど大きな皺の入ったハンカチを探り出した。少年は無言で首を振る。好意で出してもらっていることくらいは重々承知しているが、あまりお世話にはなりたくない代物だ。 「えっと、その、大丈夫です。失礼します。」 「風邪引くって。夏の風邪は長引くぜ。」 遠慮のかけらもなく、男は少年の二の腕を捕まえると、ハンカチを頭にのせてがしがしと動かした。 「本多君、いったい……ああ、回覧板ですか?ありがとうございます。」 途方にくれて―――という表現はあながち外れてもいない―――男の親切心のままに頭を拭かれていると、のんきな声といっしょに、扉の内側からぱたぱたと足音が近づいてくる。うわさのカタギリさんのお出ましだ。 ああ、この人と自分はろくに話したこともないのだ。 胸の内側で、考えるともなしにそんなことを少年は考えていた。 「ああ、君―――濡れちゃって。」 隣人は少年が足元に置いた回覧板を一瞥した。けれどそれを拾い上げるよりも、彼も大男と同じく、通り雨に降られた子供の姿が気にかかったようだった。 「いや、あの、」 回覧板、といいかける少年の言を遮りながら、いましがた出てきた穏やかそうな中年の男は、くるりときれいに回れ右をする。 「ちょっと待ってくださいね、タオルもってきますからね。」 「いえ、帰ります!失礼しました!」 張り上げた声に奥に向かおうとしていた男が立ち止まって振り返り、小さく首をかしげる。 「でも、風邪をひくと悪いから。」 「大丈夫です。」 「そうですか?この季節の雨はもう冷たいですよ?」 ううん、と少年の言に困ったように黒い相貌が瞬く。そんなに困られても、正直こちらが困る。 「いえあの、近所なんで。」 重ねて言い張ると、頭上で小さく笑う声がした。 「そうだろうな、回覧板なんてもってくるんだもんな。…カタギリさん、俺送って帰りますよ。」 「ああ、よろしくおねがいします。」 そうして、隣家の門扉は穏やかに閉ざされた。 「送るっていわれても……」 ちらりと横をみる。呆けたように軒下で立ちすくむ大男も、どうやら見たところ、折りたたみ傘など気の利いたものは持っていないようだった。送っていく、というなら二人並んで濡れて歩くだけだろう。それは果たして親切といえるかどうか微妙なところだ。かえって、ひとりであれば走って行けたものを。 いまからでも遅くないから、ありがとうございましたとだけ言って走り出してしまおうか。 なかば恨み節で胸中つぶやく少年に気づいているのか、男は肩をすくめると悪いなとつぶやいた。鞄を持ち上げて少年の頭上にかざし、ちょっとした雨よけを作る。ありがたくない上に、コストも悪い傘の出来上がりだ。 「何がですか?」 「いやさ…ちょっと聞いてみたくて。」 愛嬌のある、そこだけ小動物めいた敏捷な黒い目が、ちらりと出てきた家屋を見上げた。それにつられて少年もかの家をみやる。 「あー……あの人さ、前からあんな感じだったか?」 あの人、とは、十中八九。否、もはや十中十。 「カタギリさんですか?」 「ああ。」 「前もなにも…おれはよくわからないけど。」 そもそも、あのおじさんがカタギリという名前なこともさっきはじめて知ったというのに、いきなりそんなことをいわれても困る。けれどちらりと好奇心は疼いた。 「あんな?」 「ああ、と、その…、な…。」 口ごもって言葉を捜す大男に、先ほど覚えた好奇心が疼きだす。 「様子がな、おかしいんだよ。前はあんなんじゃなかった……あんなんじゃなかったと、思う。」 「……へえ。でもすみません、おれもよくわからないんです、」 「そっか?でも近くに住んでるんだろ。」 地域住民という薄い絆をそれほど重要視されても、正直困るのだが。 しばらく待っても新しい情報を落とそうとしない男に、薄っすら芽生えた少年の好奇心は静かにしぼんだ。 (つまんね。) おもしろい情報も聞けそうにないし、そろそろ本格的にお暇したい。 「あ、雨。」 見やった先で、つい先刻まで降っていた雨の音が止んだ。勢いのある雨は、それだけ止むのも早い。 「……止んだな。」 (チャンス、) 大男―――本多といったか?―――の視線が逸れたのを契機に、くるりと少年は踵を返した。 「『傘』、ありがとうございました。それじゃ!」 「あ、おい!」 いきなり走り出した少年が手を振って角を曲がるのに驚いて、大男が大股で少年の後を追う。 「おい…って、あれ?」 確かに角を曲がったはずの少年は、男が覗き込んだ路地裏にはもういなかった。 「あいつ、どこにいった?」 寂れた路地裏。ゴミも、ましてや人家も、身を隠せるようなものはどこにもない。まさかあの短時間でこの路地を走り抜けたのかと、男は若干的外れな感嘆を漏らした。 「最近の子供は足が速ぇな。」 夢を見る。 夢の中で、おれは電話をかけている。 何の要件があって誰にかけたのか、それはよくわからない。 受話器の向こうからは、 「佐伯君、佐伯君ですね。」 電話番号すら知らないはずの、そしてその声は今日はじめて知ったはずの、あのおじさんの声がした。 でも、そういえばなんでおれはあの人に聞くまで、あのおじさんの名前を知らなかったんだろう。 とても近くに住んでいるはずなのに。 回覧板を届けに行くくらい、ずっと近所に住んでいたはずなのに。 to be continued |
2011.2 |
小説のページに戻る |