ルート
御堂×克哉 R-Bad ED 「臆病な純愛」

警告
性描写有
   
「すみません、あのこれ……!」
背後の声に、僅かに片眉を上げた御堂が振り返る。 その視線の先では、なにやら言いにくそうにあちこちに視線をさまよわせた藤田が、小奇麗にまとめられた資料をおずおずと差し出していた。
「これは?」
「先週頭からの小売店舗の売り上げ推移を纏めておいたんです。」
訝しげな言葉を珍しく遮って、藤田はどこか言い訳がましく続けた。
「あの、資料になるかと思って。〆日まではもうすこしあるんですが…。」
向かい合う無表情をどうとったものか、口の中でもごもごと言い訳未満の言葉を洩らす部下に御堂はひとつためいきをつく。
「佐伯君の担当案件だったな。」
ゆっくりと距離を詰めると、御堂は差し出された書類の一番上のグラフを目で追う。 簡潔に説明付けられた数値は、本来ならば。
「はい、佐伯さんの担当なんですが。すみません、差し出がましいかとも思ったんですけど。」
書類の上に視線を滑らせるだけで手を伸ばしてこようとはしない御堂に、行き場がなくなったらしい藤田の書類が僅かに落ちつかなげに揺れる。 しまいには小さく首を傾げて、彼は続けた。
「ただ佐伯さんって、〆日の五日前には大体仕事上げてるような人でしたから、ぎりぎりのラインでどうこうするのって苦手なのかなって勝手に…。」
「全く…。」
不意に御堂の双眸が細められる。
はっきりと言葉にできる理由もなく、藤田は続けようと思った言葉を喉の奥に飲み込んだ。
「君も過保護だな。」
紫紺の視線の表情は、蛍光灯の強い光に反射して深く覗き込むことはできない。
「御堂部長?」
「なんでもない。わざわざすまないな。君もたまには早く帰ったらいい。」
伸ばされた腕が束ねられた書類を受け取ると、長い指先がそれをそっとなぞる。
「いえ、部長こそ。今まで佐伯さんのお休みのフォローずっとされてきたんですから。」
一瞬だけ妙な気配を見せたものの、個人主義を地で行く上司がその書類を要らぬ気遣いと跳ね除けなかったことに安堵して、青年は眼を細めて笑う。 その向かいで静かに御堂の目が伏せられた。
「休暇も、今日までですもんね。佐伯さん、帰ってきたら大変だろうなー!」
同情しちゃいます、とどこまで本気かわからない軽い口調で肩を竦めた藤田が空席に目をやる。
「そうだな。」
御堂の当たり障りのない言葉に屈託なく笑い返して、藤田がひとつ頭を下げて自分のデスクに向かった。 その後姿を見るともなしに眺めながら、声を出さずに御堂は口の中だけで呟く。
(明日か。)
彼の瞼の裏を、どこか不自然なほどにまっすぐに、そして穏やかに据わった克哉の眼がよぎる。
―――御堂がその情人を真綿で包むようにして、文字通りに繋ぎはじめてから、ちょうど明日で一ヶ月になろうとしていた。

こんな状況は、どうかしている。 その自嘲よりも色濃い焦燥の棘が、まるで飲み込み損ねた小骨のように、御堂の胸の奥深い場所を幾度も小さく刺して回るようになったのが何日前だったろう。 ふと考えてみて、それが―――自分が正気の判断力を取り戻したのが思いのほか最近のことだったことが、薄い唇を苦く歪ませた。
自分はあのとき、彼を掌にすっぽりと包み込もうとした。手では彼を戒め言葉では彼に縋り、そうやって大事に誰の手も届かぬところへしまいこもうとしていた。
そして実際、あの穏やかな瞳は、この一ヶ月自分以外のなにものをも見ていない。
(私が言ったとおりに、私が望んだとおりに。)
ゆっくりと何歩か進んで与えられたデスクに収まり、ひとつ溜息をついて引き出しに手を掛ける。
そこにあるのは、一ヶ月前、自分でそこから取り出して提出をしたはずの彼の休暇願いの残像だ。
「早いものだな。」
もう一ヶ月も経ってしまった。
強く望み、一時的にも実現してしまったあれがどれだけ不自然で不安定な均衡か、冷静に考えられるほどの時間が―――もう経ってしまった。
「明日がタイムリミット、か……。」
喉の奥で呟いて背もたれに僅かに体重をかける。 軋みもしない無機物の変わりに、いきなり屈曲の力を掛けられた背骨が音もなく痛んだ。
間違いは正されなければいけない。そう、少なくともその期限までには。
今となっては、もうよくわかっているのだから。
(あれは間違いだ。)
今から考えれば、自分が行い彼が頷いたあれは愚行としかいいようがない。いくら、

(それでも彼を繋いだそのとき、私の胸の裡に一縷の救いの光しかみえなかったとはいえ。)





            夜明けまで





この手を拒め。
あの言葉は正しかった。今考えてみれば明らかに、そしてあのときすらもぼんやりと、自分でわかっていた。十分すぎるほどに、わかっていたはずだった。
けれどあの、今にも消え入るほどに頼りない最後の良心の声を、一体誰が本気だと信じただろう。 あの、身体の芯、背骨の中心から沁み出した恐怖を抱えて、全身が凍りつきそうな不安の中で搾り出した言葉を、 そして彼が迷いなく手を伸ばしてくれた瞬間に、風化した瓦礫のようにあっさりと砕け散った言葉を。
自分だって、ましてや彼だって信じはしなかった。それは当然のことだ。 そして彼は躊躇いもなく、その正しいはずの言葉を私から押しのけた。 そうして、不恰好な頑是無い言葉を、多分肯定してはいけなかったはずの言葉を、私の中から掬い出して首肯した。
そのとき彼が何を感じどう考えていたのかは、私にはよくわからない。
いや、私は向かい合う彼のことを考える余裕もなかったのだと、今ならばわかる。
ただ、彼はひどく静かに笑っていた。咎めるでも諌めるでもなく、穏やかというには複雑な焔をその瞳の裏に抱いて、ただ静かに笑っていた。 その笑みの名は慈悲ではない。あえて名づけるのなら、どこか歪んだものであれ、きっとそれは間違いなく幸福の。
(そうだろう、克哉。)
けれど、彼の笑みに向かい合っていたはずの私は、どんな顔をしていたのだろうか。
そんなことを今更になって考える。

深夜近くに帰り着いた部屋は、しんと静まり返って物音もない。
部屋には明かりもなく、克哉は誰もいないリビングにぼんやりと突っ立っていた。 窓の外を遠く眺めるようにして、背を屈めることなく踵に重心を置いて、両手をだらりと下げていた。

彼は決して華奢な体格ではない。シャツを一枚羽織っただけのそのすべらかな肌は堅く、そしてしなやかではあっても弱々しいものではない。 青白い窓の外からの灯火の移り火だろうか――― それでも彼をどこか見知らぬ、まるで人間以外の、それどころか質量のない輪郭だけのような不気味な影にも似たものに見せるものは。 不意にざわりと腹の底が騒いだ。
声を出すのもどこかはばかられて、黙ったまま彼の後ろに回りこむ。
音で私の帰宅には気づいていたのだろう。彼は唐突な抱擁にも驚く気配を見せず、 薄く目を閉じたままくすくすと低い声で機嫌よく笑いながら、猫かなにかの小動物じみた動きで後頭部をこちらの頬に摺り寄せた。
まるで本当に影になってしまったかのように、その仕草には勢いがない。 けれど精彩がないというのともまた違う。 なにか、名前は知らないが一年前にその双眸に揺らめいていたような気もする妙な引力が、たしかな手応えを以って私に絡みつく。 それに誘われるようにして、腹の底にうごめく物が、形ももたないままにじりじりと喉元にまで這い上がる。
「おかえりなさい。」
「ああ―――ただいま。」
吐息がちょうど密接した耳にかかったのだろう。くすぐったそうに、克哉が目を細めて笑った。

ああ、もう既に、あと何分か後には明日になってしまう。
あと何分かで、正気に戻った私の前で、一ヶ月の期限が切れてしまう。

思い当たった事実が思いのほか自分にとって苦かったことに、自分でも呆れた苦笑しか出せない。 腹の底から今や喉元にまで這い上がった気持ちの悪い感触が、その苦笑の空気に触れて揺れた。
(何を今更になって、馬鹿なことを。)
愛しているなどと、君を失うことが耐えられないなどと、そう繰言を呟きながら、それでも私はあのときでさえ君を完全に手の内に囲い込むことはできなかった筈だ。 あのじっとりとした恐怖に追い詰められて浮かされて、どこかおかしくなってしまった夜でさえ、私が君から受理したことにしたのは離職届ではなく長期の休暇願だったし、 君の首に掛けたのは無骨な実用的な戒めではなく澄んだ音をたてる軽い鎖だった。 一生を縛ると、何かの弾みで手の内から零れ落ちないようにするのだと、その稚気にあふれた台詞はある意味本気ではあったけれど、 私は彼の退路を決定的に断つようなことはしていなかった。君も、そして私も信じはしなかったけれど、逃げろとすら私は口にできた。
それなのに、どうしてだろう。
あのときはどうかしていたと、一ヶ月も彼のすぐ傍でその吐息すら盗むようにひたすら愛しんでいた今は、わかっているはずなのに。 そうだ、今日もオフィスでちょうどその焦燥じみた悔恨の棘に苛まれていたはずなのに。 一ヶ月の休暇が過ぎれば当たり前のように彼が復帰すると、そう一課の人間全てが思っているというのに、 ―――私だってあの焼け付く喪失の恐怖の数日を超えてからは、そしてたったいまここに帰り着く前までは、彼を日常に解放するつもりであったというのに。

なのになぜ、どうしてあの切羽詰ったときでさえ残せた、彼の現実への最後の架け橋を。
私はまともになった今になってこんなに厭っているのだろう。
なあ克哉、
(もう、明日までは一分もない。)

「克哉……、」
鼻先を色素の薄い髪がさらさらと擽る。胸の奥を音も立てずにゆっくりと苦い味の砂が滑り落ちる。
「……ただいま。」
答えらしい答えも出せないうちに、秒針が軽い音を立てて零時を回った。 視界の端で、私たちに許されていた一ヶ月の期限があっさりと終わった。たったそれだけのことだ。期限自体は充分、自分でもわかっていたことだ。それなのに。
それなのになぜ、
(どうして今になって私は震えているのだろう。)

「御堂さん?」
声もなく片手を塞ぐ邪魔な鞄を置こうと身を屈めた私の動きにあわせて、彼がするりとしゃがみこむ。
疲れたというわけではないのだろう。 むしろ、別に立っている理由もないからといわんばかりの滑らかで余裕のある彼の動きに誘われるようにして 一緒に座り込み、暫くそのまま、目の前のどこか低い体温を掌だけで追いかける。
緩く目の前の身体を抱きしめながらシャツの下に片方の掌を潜らせると、声を潜めて彼は低く楽しげに笑った。僅かな布地の間で暖められた空気がその笑いのために震える。 もう片方の手では彼の足首をなぞって包み込んだ。玩具とはいえ、金属の硬い鎖を下げているというのに、彼の足首には殆ど傷らしい傷がない。 言葉もかけずに僅かな擦り傷もないその足首を撫でていると、彼はまた目を細めて楽しげに笑った。
「痛くなんかないですよ。だって、オレが暴れるわけないじゃないですか。」
ひどく甘い声に目を伏せたまま、続けて足首を撫でる。 なにも返さない私に何を思ったものか、小さく群青の目をひらめかせて彼が首を傾げると、ふいと空気が揺らいで彼の体温がぴったりと私の身体に懐いた。
「あなたから、逃げるわけがないじゃないですか。」
吐息交じりの言葉が、耳朶から頭の芯にまっすぐにおとしこまれる。柔らかな声を受ける耳の奥が、じわりと何か甘苦しい粘着性のものに浸される。
「君は―――、」
彼の柔らかな声音に比べて、私の声は喉に絡んでひどく掠れていた。
「後悔しては、いないのか。」
「後悔?オレが?」
心底不思議だといわんばかりの声に、伏せていた目をあげてまじまじと克哉の笑顔を見る。 その群青の奥の光が、暖かな感情をのせてまっすぐにこちらの瞳を覗き込む。
とたんに胸の中に蘇る甘く昏い感情に思わず呻くと同時に、じわりと目の前の風景がゆがんだ。かたく握っていたはずの手指が、ゆっくりと開いて震える。

今日が彼の休暇の最後。今日が終わればこの普通ではない状況も終わり。あの夜はきっとどうかしていた。 何度も胸の中で繰り返してきたいくつもの言葉が、風景と一緒に音もなく歪んでぼやける。―――どれだけあの夜、彼を失うことが怖かっただろう。
ぼやけて消えたその真っ当な言葉の代わりに、次々ととめどなく目の前に浮かびあがるのは。
(明日だけ、このままで。)
何を考えているのだろうと自分でもあきれ返るような矮小な腕を、私の中の獣が広げる。 たった一日、期限が延びるだけ。
(そうだ、たった一日くらい。)
「どうしようもないな、私は…。」
それは逃げだ。頭の奥でもう一人、冷静な自分が囁く声に貸す耳はなかった。

私の目の表情に何を読み取ったのか、小さくため息をついた克哉がこちらに身を乗り出した。
しなやかな腕が、しゃがみこんで目を伏せたままの私の体に巻きついて抱え込み、引きずり倒す。
この腕は、私よりもずっとひどく涼やかで穏やかで優しくて、そして。
―――『あなたから、逃げたりしない。』
(熱い。)

その熱に浮かされるようにして、一度は振り切ったはずのあの熱病が再び私の中に舞い戻る。
「愛している…。」
たとえどれほど深く繋ぎあって固く結び合っていても、私たちはひとつのものではない。最後の別離は覚悟せざるをえない。 それならばせめて、その時を一刻でもあとに引き伸ばしたほうがいいに決まっている。
「君を、愛している…。」
言葉にしてみれば、どれだけ愚かで歪んだ願いだろう。これほどまでに純粋で苛烈なものを、私はずっと抑え込んで飼いならしてきたつもりでいた。 真っ当に、彼を繋ぐための枷のような手指を、その願いを解けるつもりでいた。
それなのにその焔を、君が煽るから。
(私のせいだけじゃない、そうだろう。)
言い訳だ。誰に指摘されるでもなく、自分自身でよくわかる。
ゆらりと、目の前の不思議な色合いの双眸が滲んで揺れる。ああ、影などであるものか。これは鬼火だ。 見る者を引き付けて惑わせて、そうして炎も煙も立てずに焦がす、これは不吉な鬼火だ。
「私は、君を失いたくないだけだ…。」
「知っています。」
するりと白い腕が首に絡む。スーツの上着だけをいつの間にか脱がされて、彼と揃いの薄手のシャツだけになった首元が、白い指先にくじられてくしゃりと歪む。 すいと近寄ってきた青い目が、今度は細められもしないまま、口の中を喰らいつくすような口付けをくれた。 夢中になってそれに応え、熱い上顎を舌先で辿る。彼の顎を支えていたこちらの指先に力が入って、触れ合う口蓋が大きく開いた。
一瞬結んだ唇同士が離れ、その間に流れ落ちる銀の糸を惜しむようにして今度は克哉が舌を伸ばす。 わずかにひび割れていたこちらの唇がちょうどその舌に突付かれて小さく痛んだ。
「私は、君を、」
言葉の先を奪うように、二度三度、離れてはまた唇を寄せ合う。
まるで儀式のようなそれが済むと、今度は彼は喉の奥で笑って姿勢を低くする。そして、顎のちょうど下から上目遣いにこちらを見上げながら、ほんの少し膝を開いた。 その体勢を黙って見ていれば、焦らされたようにほんの少し眉を寄せて私から視線を外し、さらに大きく膝を動かしてからまたこちらの目を覗き込む。
そうこうしているうちに、正しいはずの言葉はすっかり私の頭からなくなってしまった。
ただ彼の熱度が、どこか虚ろでしかし明らかに炯炯と燃える熱度がほんのすぐそばにある。
「君を…。」
「いいから………好きです、御堂さん。」
続けてなにかを呟こうとした克哉の唇は、しかしそれ以上言葉を零すことはなかった。
さっきから短い時間とはいえ焦らすだけ焦らしていた舌同士を、やっと正面から絡めあう。 吐息を盗み、たとえ僅かにでも身を逸らそうとすればその力を根こそぎ奪い取るような、 触れるのではなく刻み付けるような口接けの前に、いったい何の言葉が必要だというのだろう。
―――『逃げてくれ、』
(逃げないでくれ、)
(どうか、)
目の前の唇は、ひどく赤く色づいている。戯れにかすかに抗うかのような身じろぎを身体全体で強引に押さえ込む。 身体の下で小さく身をよじる、その彼の動きがざわりと触れ合った肌を粟立てた。
「好きです、あなたが。オレだってあなたを失くしたくなんかない。」
耳のすぐ傍で囁かれる吐息交じりの声に、彼の背後に回した手が勝手にその肌に爪を立てる。

私は、
(もう君を解放できないのかもしれない。)
目の前がゆっくりと暗くなるような気持ちだった。
「克哉、」
どうか、得体の知れない怪物になった私から目をそらさないでくれ。

声にもならない声への答はなかったが、無音の懇願が聞き入れられたことを御堂は知っている。
向かい合う群青の瞳が、ひどく静かに笑った。


今になって、よくわかる。 私にとってどれだけ、この一ヶ月が変えがたいものであったか。
そして今だって、私の胸の裡には間違いなくどこか冷たい安堵の明るい灯火がある。




to be continued


2009.8
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